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"これからの「正義」の話をしよう"のまとめ 第4章

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イラクでアメリカのために戦っている人々の圧倒的多数は、都市部のスラム街や地方の貧しい地域の出身だ。こういった地域では、最高四万ドルという入隊一時金や教育を受ける際の数々の特典はきわめて魅力が大きい。大学に入る選択肢を持っている人にとって、こうしたインセンティブはー自分の命を危険にさらすことになるのであればーあまり意味がない。

(マイケル・サンデル:”これからの「正義」の話をしよう”より抜粋)

 

 

引き続き、第4章のまとめを。

第3章については以下を参考にしてください。

 


第4章は「市場と倫理」についてです。

 

 

 

正義をめぐる議論について

 

正義をめぐる議論が白熱すると、たいていは市場の役割の話になる。自由市場は公平なのか。お金で買えないもの、否、お金で買ってはならないものはあるのか。もしあるとすれば、それは何であり、それを売買することのどこがいけないのか。

典型的な自由市場の擁護論は二種類に分かれる。一方は自由を、もう一方は福祉を重視する。前者は市場をリバタリアニズムの観点から論じ、後者は功利主義の観点から論じている。

 

 

徴兵と傭兵のどちらが正しいのか

 

南北戦争での徴兵法

 

アメリカ南北戦争初期、お祭り気分や愛国心の高まりもあり、多くの男性が北軍に志願した。しかし、第一次ブルランの戦いに敗れると、戦争はすぐに終結しないのではないかと北部諸州は案じ始めた。さらに兵士を募る必要が生じたため、エイブラハム・リンカーンが北軍初の徴兵法に署名した。しかし、この徴兵制は個人主義を重んじるアメリカの伝統に逆らっていたため、その伝統に対して大幅に譲歩した内容となっていた。(徴兵されたが兵役に就きたくないものは誰でも代わりの者を雇ってもいいという内容

 

身代わりを探している招集兵は新聞に公告を出し、1500ドル支払うという条件を提示した。しかし、この金額は当時としてはかなりの金額であり、「富める者の戦争で貧しい者が戦う」と揶揄され不満が高まった。

こうした不満をなだめるため連邦議会は新しい徴兵法を成立させた。この法律では身代わりを雇う権利は維持されたものの、招集兵は従軍しない場合に300ドル払えばよいことになった。しかし、この兵役免除費は身代わり徴兵よりも人気がなかった。おそらく、人間の命(または死のリスク)に政府が値段をつけた感じがしたからだろう。

 

南北戦争で採用されたこの制度は、兵役を割り当てる公平な方法であっただろうか。金持ちが金で身代わりを雇い、その人間を戦争に送り込むのは不公平ではないのか。この制度は一種の階級差別といえるのではないだろうか。

 

 

徴兵制と志願兵制

 

金持ちが身代わりを金で雇ったから不公平だとすれば、現在の志願兵制にも同じことがいえるのではないか。雇う方法は違う。南北戦争時代は身代わりを見つけて直接金を払うのに対し、現在はアメリカ軍が兵士を募集し、納税者が全員で兵士に金を払う。兵役に就きたくない人間がほかの人間を雇って戦わせ、彼らの生命を危険にさらしているという状況に変わりはないのだから、倫理面では同じなのではないだろうか。

 

アメリカ国民の大半は志願兵制を支持しており、徴兵制を復活させたいと思っているものはほとんどいない。しかし、イラク戦争により再び巻き起こった志願兵制対徴兵制の議論により、私たちは政治哲学の重要な問題である、個人の自由市民の義務について直面せざるを得なくなった。この問題を掘り下げるために、これまで挙げた以下の3つの兵士の集め方を比較し、どれが最も公平か考えることにする

 

  1. 徴兵制
  2. 身代わりを雇ってもいいという条件付きの徴兵制(南北戦争時の制度)
  3. 市場方式(志願兵制)

 

 

志願兵制の擁護論

 

リバタリアンの視点で考えると、答えは聞くまでもなく1つめの徴兵制は不公平である。強制であり、一種の奴隷制であるからだ。徴兵制を奴隷制と同じまでは考えないとしても、選択肢を制限し、ひいては全体の幸福を損なうという理由から功利主義者からは反対の声が上がるかもしれない。招集されたものと身代わりになるものが双方同意し、取引を行うならば、それを止める筋合いはだれにもない。こうした取引をする自由は、他人の利益を損なうことなく当事者同士の利益を増やすように思われるからである。したがって、功利主義的観点からすれば、2つ目の南北戦争時の制度は、1つ目の単純な徴兵制より優れていると考えられる。

 

 招集兵が身代わりを雇うことを支持する論理は、一切を市場に任せる解決策である志願兵制をも同じく支持することになる。そもそも誰かを徴兵する必要などなく、労働市場を通じて兵士を募集すれば済むのではないか。必要な人数と質の兵士を集められるだけの賃金と手当てを設定し、あとは人々の自由決定に任せればいい。したがって功利主義的な観点からすれば3つの選択肢の中で志願兵制が最も優れている

 

したがって、リバタリアンと功利主義者の双方の観点から志願兵制が最善であり、南北戦争時の混合制度が次点、最も望ましくないのが徴兵制となる。しかし、この論法には少なくとも二つの反論が考えられる。

 

 

志願兵制に対する反論

反論その1:公平性と自由

 

最初の反論は、限られた選択肢しかない人間にとっては、自由市場はそれほど自由ではないという言い分だ。人々が様々な仕事を引き受ける際の選択も、そこに含まれる。兵役について考える場合、この問題はどういう形をとるだろうか。背景となる社会状況についてもっと情報がないと、志願兵制が公平か不公平かを決めることはできない。妥当なレベルの機会の均等は確保されているだろうか、それとも、人生の選択肢がないに等しいものもいるだろうか?すべての人が大学教育を受ける機会に恵まれているのだろうか、それとも、大学に行くには軍隊に入るしかない者もいるのだろうか?

 

貧困や経済的ハンディが社会に広がっている場合、軍隊に入るという選択は選択肢がない状況の表れにすぎない可能性がある。社会の中でほかにましな選択肢がない場合、兵役に就くのを選ぶものは実質的には経済的必要性に迫られて徴兵されるようなものだ。その場合、徴兵制と志願兵制の違いは強制化自由意志かの違いではない。強制の仕方が違うのである。前者は法律の力、後者は経済的な圧力によって強制されるのだ

 

 

反論その2:市民道徳と公益

 

兵役を割り振るのに市場を利用することへの2つ目の反論は市民道徳と公益という名目での反論だ。この反論によれば、兵役はただの仕事ではなく市民の義務である。徴兵制を支持する市民の言い分は、兵役は市民の責任であるというものである。兵役は民主主義における市民権を表現し、深めるのである。この見方からすれば、兵役を商品とするー他人をお金で雇って兵役を肩代わりさせるーのは、それを支えている市民の理念を腐敗させることに他ならない

 

 

金をもらっての妊娠

「ベビーM事件」

 

ウィリアムとエリザベスのスターン夫妻は、2人とも専門職(夫は生科学者、妻は小児科医)で、ニュージャージー州のテナフライに住んでいた。ともに子供をほしがっていたが、エリザベス側に医学的なリスクがあり、自分たちの子供を持つことができなかった。そこで夫妻は不妊症センターに連絡を取り、「代理妊娠」の手配をした。

 

 これに応募した女性の1人が、メアリー・ベス・ホワイトヘッドだった。彼女は2人の子供の母親で夫は清掃作業員だった。彼女はィリアムの精子を人工授精し、子供を産み、生まれた子供をウィリアムに引き渡すという契約に同意した。(この契約では子供引き渡し時に1万ドルおよび、それまでの医療費を夫妻が支払うことになっていた)

 

人工授精を数回試みた結果、メアリー・べスは妊娠し、女の子を出産した。スターン夫妻は、養女となるその女の子を心待ちにし、メリッサという名前まで用意していた。ところがメアリーは赤ん坊と別れるのを拒み、一緒にフロリダに逃走した。スターン夫妻は裁判所命令を取り付け、子供を渡すようメアリーに要求した。

 

ニュージャージー州の裁判所では、契約は履行されるべきとした。その理由は、2人の合意した成人が、双方に利益をもたらす契約を自発的に結んだからである。契約は契約であり、気が変わっただけの理由で、生みの母親が契約を破る権利はないとした。

 

メアリーはこの判決を不服とし、ニュージャージ州の最高裁判所に上訴した。最高裁判所は全員一致で、第一審の判決を覆し、代理出産は無効だという判決を下した。その理由としては第一に同意に瑕疵があったからだとしている。メアリーが結んだ契約は自発的なものではなく、十分な情報が与えられていなかった状態でのものであるからである。(生まれる前では子供との絆の深さを知ることができず、完全に自発的な決断を下すことは不可能であると裁判長は述べている)

裁判長はもっと根本的な第2の理由も上げている。それは商業的な代理出産は赤ん坊の売買に当たり、赤ん坊の売買はたとえ自発的であったとしても間違っているからである。

 

 

まとめ

 

子供を産むことと戦争で戦うことほど異質な行為はない。しかし、この2つには共通点がある。この是非を考えていくと2つの問題に向き合わざるを得ない。それは1つは、自由市場で私たちが下す選択はどこまで自由なのかという問題。もう1つは、市場では評価されなくても、金で買えない美徳やより高級なものは存在するのかという問である。

 

 

第5章に続きます。